おすすめスポットの紹介

 大山町上中山地区の名所、旧跡を紹介します。(神話、史跡、神社、文化、等)
 是非ご覧頂き、足を運んでみて下さい。これからも、随時掲載します。

一息坂峠と大山さんお接待

 「大山さん」と呼ばれて厚く信仰された大智明大権現への参詣道「大山みち」の途中にある峠。ここでは、春の大山大祭の日(5月24日)に束積の小谷家が代々大山さん詣出の人々にお接待をされている。
 湯茶、赤飯、たけのこ、わらび、みょうが、など縁起物を振る舞い喜ばれている。旅の途中のお腹を満たし、又歩き出す、そんな心温まる場所である。


報恩峠

 大山道が昭和37年に県道拡幅改良工事で整備される際、末次町長が残地などに桜の植樹を行うことを計画、ヤマサクラ、ソメイヨシノ、ヤエサクラなどが三キロに亘って植樹され並木が形成された。昭和50年代後半頃からその維持を老人クラブ、大山ライオンズクラブ及び行政が行うようになって駐車場、遊歩道、花壇などが整備され一町松が町保護文化財に指定されるなど、次第にこの桜並木公園も桜の名所などとして知られるようになった。
 (中山町誌より)


文芸の小径

 昭和53年度に中央公民館文化教室の合同研修会として岡山県久米南町弓削の川柳の小径の視察が行われたが、このときの参加者の反響が契機となって、昭和60年11月に町民有志と俳句教室と川柳教室とする公民館文化教室がこの桜の名所「町民が自由に句碑の建立を行い、桜並木や老松と調和した「仮称 文芸の小径」を建設し、本町の一大名勝公園」にすることを企画、提案した。以後さまざまな活動を経て昭和62年4月21日に「報恩峠 文芸の小径」完成の除幕式が行われた。町内外からの参加があり、句碑は総数60基を数えるまでになった。平成9年度には「報恩峠 桜並木と文芸の小径」が鳥取県景観大賞を受賞している。
 当初は、ここに町内外から文芸愛好家が参集して「雨城忌句会」(俳人であった末次雨城 末次博文町長)が開催されたが、この句会も役員の高齢化や会員の減少によって、その維持が困難となり平成13年を最後に閉会となった。それでも春に桜が満開となる時期には、花見と句碑、歌碑の見学者が訪れている。
 (中山町誌より)


中山神社

 神社の主祭神である大国主命(オオクニヌシノミコト)は、出雲の国から因幡の国に出かけられた時、この地の白兎の難儀を救われた。また、この地の経営にあたる縁があって、神代(かみよ)の時代から鎮座されている主祭神と伝えられている。神社の創立は村上天皇(962年 ) 以前とあるが、記録の焼失で明らかにされていない。
 また、中山神社のある束積集落では、「虫送り」行事が7 月の第3 土曜日に行われてきました。村人がたいまつを手に、行列をしながら「イネの虫おくった」と唱えて、農作物の害虫駆除と豊作を願う行事が、今も続けられてきました。
 神社の境内の雰囲気は、境内に入ると大木が鬱蒼として、夏は涼しく、秋は多くの落ち葉を踏みしめる鎮守の森となっています。その昔、「大森大明神」と言い、地域の人は通称「大森さん」と呼び、親しんできました。
 境内の自然は、植物の種類も多く、イヌマキ、ケヤキ、スダジイなどの大木がみられます。小学生の自然観察の場所として使われてきました。
 その他、本殿の基壇となっている亀腹石(かめはらいし)に、珍しい半浮き彫りの亀もみられます。


鷺宮神社

 「伯耆の白うさぎ」神話の発祥の地でもある束積。中山神社の境内、北東の神職・細谷家の敷地内の一角に鎮座する。
 中山神社の主祭神のほかの合祭神6 体の中に、白兎神(シロウサギノカミ)があります。白兎神をまつる鷺宮(さぎのみや)神社は、神社境内の一角に古い社(やしろ)が移築されている。江戸時代には天然痘が流行している時に、疱瘡(ほうそう)神として信仰されてきた。
 白兎の伝説は、「いなばの白兎」が有名であるが、この地にはもう一つの神話伝説「伯耆の白兎」があります。平成29年には、大山町八重の奧田幸子氏により紙芝居が製作された。令和2 年には、同氏の挿絵の入った「伯耆の白うさぎ」せんべいも実用販売となりました。


腰かけ岩

 束積地内、滝端にある。「伯耆の白うさぎ」神話の中にある白うさぎが腰かけて休憩をとったと言われる大岩。「白うさぎのお腰掛け岩」と呼ばれていて、村人がこの岩に詣出て祈る風習がある。


岩屋平ル古墳

 八重集落の南側に広がる丘陵上に位置する円墳。墳丘は直径21メートル、高さ3.5メートル。墳丘のほぼ中心に入口を南側に向けた横穴式石室がある。
 平成3年3月26日に県指定史跡となっている。


樋口神社

 村中総がかりで明治32年7月31日に本殿の建替が完成した。大根島の宮大工が一年かけて春日造りの精巧な建築で、大山町の保護指定文化財です。祭神は素盞鳴命であるが南北朝の頃に、この地に天災、怪異があり、また疫病も流行したので、当時最も霊験顕著と言われていた京都祇園の社から牛頭天皇を勧請し、鎮護の神と尊敬し奉っている。「叶わぬ時の神頼」「コロナ退散信仰も又良し」


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俵型力石

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丸型力石

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十七〆と刻印

力石

 事典要約「力石」について
 江戸中期から明治にかけて全国的に流行した集落の神社境内、村境え、集会所にゴロリとした石で、形状は丸い石と俵型の石が多く、若者達の力試し、力競べ、石占い、等に用いられた。地方によって名称は異なるらしいが、この地方では「力石」と呼ぶのが順当と思う。重量は60kg~200kgと言われている。
 「力石」は、この部落にもあり、やはり丸型と俵型である。樋口神社の丸い石には17貫と刻まれているが、俵型の石は記されている文字は見当たらない。石をかついだ先人の肩によくなじんだと思われるこの石は丸型より重く22貫ぐらいの重量はあると聞いた。若者の力試しには最適だ。現代でもこの石に挑戦した勇士は何人もいる。重くもあり要領も悪く苦闘していた。我々故郷の河川堤防、田畑、道路、水路、家庭の石垣に至るまで、人の肩にかつがれた石とのつながりを思うにつけ「力石」で競った先祖の人々に敬意を表する次第です。


樋口花壇

 樋口村は農村環境保全事業で保有する残地の活用を花壇にすることとした。任された老人クラブの有志が協議、町役場の支援を受け、80m2の土地に50m3の赤土を張本建設が工事現場から運び、地球をイメージしたようにしてもらった。
 天地人を表現することとした。海岸から拾い集めた30ヶの石で丸い形をつくり、赤い花で太陽を、人生は登り坂、下り坂、マサカを表現したり、道を造った。多くの人々の楽しい心を誘い、30戸120人ほどの樋口村の融和のシンボルにと平成20年に造成した。


岩井垣城跡

 中山郷岩井垣村(現石井垣)にあり、箆津豊後守敦忠の数代の家城であると伝えられている。岩井垣城跡の城郭内の南東隅付近を占地する春日神社が鎮座している。
 規模、内容、及び遺存状態も良好で地域史に欠かせない遺跡と認められるところとなり、現状保存がなされている。
 (中山町誌より)


七鳥橋ロード

 大山町羽田井から倉谷へ向かう広域農道にかかる七つの橋。それぞれに鳥の名前がつけられており、地上からの高さは驚く程で大山町唯一の絶叫橋と呼ばれている。



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